昭和44年03月15日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ、氏子から切るな。」

 どのような場合でも神様を外さんで済むというか、いつも頂きに頂ききっておるということは、そこまで信心と同時に神様のお懐の中に抱えられてしまうというか、神の徳にまぁ抱擁されておると言うか。そこの実感というものが頂けるところまで、信心を進めなければならん。そこには神の綱が切れようにも切れようがないというところまでね。神様のおかげを受けるということは、神様にご安心を頂くということなんですが、神様にご安心のして頂けれるところまで、神様を頂き抜かなきゃいけません。
 それにはいつも吾神の懐にありという、吾神と共にありというその実感が、いつも心に通うておるというところまで伺う。ただ神の綱を握っておるというだけではいけん。いかにも口には言葉には金光様を唱えておるようであっても、既にそれを切っておる人がある。もう切ってはおらんでも切れると同んなじという人がある多いのです。そういうところをひとつ本気で頂きたいと思うですね。今朝久し振りで若先生が元気一杯の御祈念を致しましたようでした。
 もういかんもんですから声も出されんというのが実際わかる。動く事がもうしるしゅうして堪えん。もう15、16日もなりましょうか。もう朝も晩もうずき続きなんですよね。先日青年教師会の時に幹部の方達が集まっておる時に、先ほど若先生を見舞わせて頂いたんですが、どうも破傷風に間違いないですよと。先生あんな場合先生はどういう風にあの事を感じられますかと。
 あぁいう中でも押して、毎朝の御祈念に出られるという話ですが、先生がせにゃいかんぞと仰るのですか、自発的に若先生が御祈念をなさるのですか、という質問を受けました。どう答えようもないですけれども、決して私は御祈念をどんな場合でも、せにゃならんとも言わなければ、というて医者にかかるなとも言わんし、かかれとも言わんし。んなら病室に覗いた事もないです私は。ただその事によっていよいよ分からせてもらい、その事によっていろいろ信心が、本当の信心を分からせて頂けば。
 それで結構だとこう私が思うだけですから。まちょっと考えると親としては冷淡なようですけれどもね、私はと言うてまぁそんな程度にお話した事です。事実そうなんです。今朝御祈念が済んでここでお届けをしておりますのに、昨夜はもう一晩中気分が一晩中起きながら頂いたと言う。それが今日はまぁ楽に少しはなったんでしょうね。あれだけ元気な大祓いいがあげられておったんですから。ですから例えばこれがどういうことになりましょうかね。いわゆる神の綱が切れたと言うがということ。
 その神の綱が切れるということを、氏子から切るなとこう言わ仰るがどういうことかと言うと、例えばその病気なら病気ていうことに、生神金光大神とこう綱をって縋って行く訳です。まだなら今日からでもどういう風にその病気が変化するか、そりゃ分かりゃしません。始めは何か足の間にこうこの辺には穴また腐れっていう、何かそんな事からばい菌が入ったらしい。一時は体全身にその毒が回ったのでしょうか。体全身が腫れてこう不審物が出蹴るといったような状態であった。
 もう最近はもうとにかく、もう愛子はもうずうっと一晩中かかっとります、あの人の介抱にかかっとります、かかっておるそうです私は見ませんけれど。と言う様にそのうおかげを頂いておるがここんところです。神の綱を切るということはどういうことかと言うとね、そういう時に迷いが起こる。そういう時にこれは医者に行って見てもろうたなら良かろう。いっちょ切ってもろうたなら良かろう、注射してもろうたなら良かろう。もう既にね、神の綱を外しかかっとるとですよ。
 そこに難儀なら難儀というものに取り組んで、本気で取り組んで神様に縋って取り組んでおる間は、神の綱を握っておるとです。それを頂き抜かせて頂く時に頂けるのが、私は力と言うかね。まぁ言うなら溺れておる者がワラをも掴むという意味で、信心という綱にしがみ付く。しがみ付いたからなるほど楽になったちょっとは。けれども只しがみ付いておるというだけでは、いつまでも水の中につかっとかなならん。その綱を投げかけて下さった、そこの大本のところへその綱を手繰ってですね。
 綱を手繰ってその船に乗らせてもらう。その時に初めて私は信心の力が頂けれる。そういうことを、共は繰り返ししておる内にですね。まぁ小さい小船に乗らせてもろうて、その小船から、また奥の方に停泊しておる大きな船に、こう乗せてもらえるためのおかげ。言うなら久留米の石橋先生が仰っておられるように、この世は徳の船に乗って渡れとこう仰る。徳の船に乗って渡る事なんだと。ここんところをひとつ間違いのないようにして頂きたいことはね。
 例えば医者じゃ薬じゃとこう迷うた時には、酢でにもう神の綱を外そうとしておったり、又は外したりしておる時だという風に、今日は私は表現しておりますがね。これは厳密に言うとそうでない。今日は但し言うならば薬も医者も、神様の言うならばお徳の現われていうか、神様のおかげを頂かなければ出ける事じゃないのですけれども。まぁそこにひとつそんな理屈を言わずに、もう単刀直入お徳を受けるんだ力を受けるんだと。信心とはもう徳を受ける事だと。
 まぁ極言した言い方をすると、只今私が申しますような事になるのです。ただあのおかげを受けるというだけならね、医者でも薬でも構いませんね。例えばこれは経済なら経済の問題だって同じ事ですよ。難儀という難儀はもうそうですね。誰に縋って彼に頼んでということもですね、おかげという意味においてならば神様の綱をしっかり握って、金光様金光様とその唱えてからの事ですから、それはやはりおかげですけども。今日私は力を受けるお徳を受ける。言うならばままよという心になれよと。
 ままよとはもう死んでもままよの事ぞと。それは十二分の徳を受けようと思えばそれなのである。神の徳を十二分に受けようと思えば、そういう信心をしなければならないという意味合いにおいての、神の綱ですよ今日は。だからおかげに繋がる綱とは違のですね。そう言う様な信心が繰り返されて、いわば徳の船に渡れと仰る徳の船に乗リ込むる事が出ける時に、初めて神様がいつも安心して下さるのです。そこに私どもの上にも安心が出け、安心のおかげを受けられる事が出ける。
 神ながらとかね私はそれを、そんな言葉はないでしょうけれども、人ながらいう風に申します。または御霊は御霊として、御霊ながらの働きと言った様な事を申します。これはまぁ座談ですけれども、人間でなからなければ出けない事を、一生懸命勤める事は人ながらです。神様でもお出来にならん、御霊様でもお出来にならん。その人間でなからなければ出来ないところを、一生懸命勤める事が真だと今朝は頂きました。真とはねそういうものなの。いわゆる神ながらに対する人ながら。
 これは御霊ながらのということにもそうですね。先日ある方のところの御霊のお祭りをさせて頂きます時にその事を頂いたんですけれども。私共では出卦来ないところを、御霊が御霊ながらにお働きを下さる事が出ける働き。人間じゃ出来ないところを御霊さんが働いて下さる。それを御霊ながらの働きと。しかもそこの御霊にしても人間にしても同じですけども、力があればあるほど御霊ながらの働きが出来、人間が力を頂けば頂くだけ随人の働きがいわば出来る訳でございます。
 昨夜久富繁雄さんがお届けされます中に、お夢の中にですね、亡くなられたお母さんが出て見えて、ポンプをつきよるけれどもどうしても力が足りんから、水が上がってこん。そしたら母が出て来てから、一生懸命加勢してくれましたら、どんどんその水があがって来るとを頂いたと言う様にですね、これは御霊ながらの働きを見せて下さるんですよ。それは目にも見えなければ聞こえても来ませんけれどもです、そこで御霊様には御霊様で、本当にもっともっと力をつけてあげるという働き。
 又は御霊の働きを力をいよいよ一段と、御霊の徳も輝かれるような働きを私共がしなきゃいけんのだ。御霊を大事にするということは、御霊に力をつけるようなものだ。しかもその頂いた力はです、私共では到底出来ないところをですお働き下さる。それが御霊ながらの働き。神ながらというな事もですね、これは天地の働きそのものが真です。それを今朝私は頂いた。天地の働きそのものが真だと。言うならその働きそのものが、実意丁寧のひとつの見本だと天地の働きがね。
 いわゆる天地の働きというものが、そのように間違いのないものだ。それを私共がその神ながらな働きを、人ながらの信心によっ、それを体得して行くというところが信心なんです。金光様の御信心とはそれなんです。その人ながらの働きというものがです、ならどういうことか。人間のまぁ限界と言うかね働きが力の。
 その限りを尽くすということ例えて言うならば、なら若先生が例をとりましたがね。他に楽になる道があるならばね、医者もよかろう薬も良かろうという思いが出た時にゃ、もう既に私は今日は神の綱様を離しかかった時だとこう申しましたよね。それはおかげに繋がるというのじゃなくて、力に繋がるのであるお徳に繋がるのである。それがだから人ながらなのである。いわゆる神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心になったのである。
 よし足一本切るような事があってもかまわん。いや切る所ではない、それが全身に毒が回って命を落とす様な事があってもかまわん。いわゆるままよという心は、死んでもままよのことぞという心なんです。そこが私は大事。そこの例えば信心を頂き抜く事も私は人ながらとね。言うならば水に溺れておる者が、投げかけて下さった綱に縋った。縋っただけじゃいかん、それを手繰って手繰って手繰り抜かせて頂いて、いわゆ船べりに手をかけた。かけたさぁ濡れた着物で上がる事が中々難しいのですけれども。
 そこにもう一踏ん張りもう一頑張りさせてもろうて、その小船に救い上げられたやれやれとそこにおかげがある。だからそこんところはやっぱきつい事はきついですね。もう疲れに疲れてようやく綱を頂いた。その綱を手繰ったそして船べりに手をかけた。もうそこからが大変とこう上がるまでがやっぱ一頑張りしなきゃならんとこ。そこんところでその神様というか神の綱を外すような結果になる。そしてあれに頼りこれに縋って、おかげは受けたにしましてもです、それはやはりおかげに過ぎません。
 今日は皆さんにこの御理解十七節のね、神の綱が切れたということをここに、神からは切らぬ氏子から切るなとこう仰るがです。いわばあのう切れるとじゃなくてですね、もう切らんで済む信心。どんな場合でもね外す事も勿論ないが、切る事のない信心。それを神様が安心して下さる信心だとこう申しました。神様が安心して下さる信心。今日のところはこりゃ皆さんが自分がいよいよ直面した時にですね、例えばね心が不安でたまらん心配でたまらん。神様にお縋りをしとるけども出けん。
 だからねそこんところをですね、あのうある意味合いでは割り切って、おかげを受けなければならん時もありますよ。割り切ってちとまぁそこにごへいがありますけれども、それも神様のおかげを頂かなければ出来んのですから。注射一本うって頂こう医者にも見てもらおう薬も飲もう。人間その人々のいわゆる辛抱のいわゆる限界ていうのがありますからね。そこにきはですねだからそこんにきの所は、今日の御理解から切り離して考えて頂きたいですね。おかげじゃなくてその事によって力を受ける。
 その事によって徳を受ける。まぁ言うなら神様に安心して貰えれる信者に、お取り立てを頂けると言う様な願いに立っての信心ですね。ですからもう例えばなら心がです、もう持てんと言うて他のものに縋った頼った、頼んだりする時には。既に神の綱を切る、今日の場合はもう離しかかっておるのであり、離したんだという風にまぁ頂かなきゃなりませんですね。これは例えば食べる事だってそうですよ。
 もう今日食べる米がない。まぁ隣から一食米を借りとこうと、いう時には今日の御理解から行くと、もう神の綱を外した訳なんですよ。けれどもね今日一日頂くものがあるじゃないか。明日は明日の事だと。明日は明日神様にお縋りしてと。もう明日の分まで今日から米を隣近所、借り回っておく事はいらんじゃないかと。さぁ今晩は今日一日頂けた事を有り難くお礼を申し上げて、休ませて頂くぞと言う様な心ですね今日の信心は。
 そこにはね例えば明くる日なら明くる日ちゃんと、また頂く物が御繰り合わせを頂くというか。もう私共はそういう体験はもう数限りなく頂いて参りました。それはもう最低の事ではあっても、やはり年寄り家内子供にひもじい思いをさせてたということはございませんでした。そのように間違いのない神様だということを知るということが、力なのですよ信ずる力。ですからねこれは中々だからおかげを受けるということと、お徳を受ける力を受けるというところは、もう自ずと信心が違いますね。
 ここで御理解を皆さんに聞いて頂くでも、その御理解でも内容が非常に変わって参ります。ここでは最近力を受けなければならん徳を受けなきゃならんと。人間お徳を受けなければ人間の本当の幸せはないと。神様が安心して下さる信心にならなければ、私どんがいつまで経っても安心は出けんと、言う様な窮地に立ってのお話ですからね。昨日の朝の御理解を皆さん頂かれて、まぁ皆さんも色々体験を受けられておるであろう、まぁ取り組まれた事であろうと思います。大きな信心をせよということでしたね。
 大きな信心というのはね、どの様な例えばそこに寂しいとか、悲しいとか苦しいと言う様な事であっても、それを有り難いという心で消して行けるという心が、大きな信心だという風に頂いたですね。ところがなかなかそのう、迂闊にしておりますもんですから、やっぱりそこにそういうスキッと有り難いという心で、それを消していく事が難しい事に、取り組んでみると分るのです。昨日夕方公子さんがお風呂があのう沸きましたからと、私は聞いたんです。
 したらなら頂こうと言うて、したら久富先生がまたあのう、先生お風呂が沸いたそうですからてこう言われますもん。なら、緒入りましょうかねと言うて、裸になって行ったらまだ風呂にお湯が入ってない、今入りよるとこなんです。どぅうしたこっじゃろうかこりゃ、お湯が入ってもおらんとにお湯言うて来てと言うて言うたら、公子さんがいいやあのう今からお風呂入れて良いですかということを聞きに来たんだそうです。それを私がお風呂が沸いたとこう思った。
 それから又あただにズボン履いてから、お風呂の中湯が入るまで待たせて頂いて入った。入ったところが今度はもう手もつけられんごと熱いとです。そういう時にですね、それこそ有り難いていうもので消して行けれる訳。これはもう日常茶飯事の中に、もう沢山ある事そういう問題は。こちらが聞き違いであったと。あれだけいつも言うた人が、こんな事であるのも何かのやっぱ都合で、そういうことなんかはもう考えられん。ただそれが何ともないそれこそ神ながらなものとしてですね。
 それを人ながらで受けて行きゃ問題はない。神ながらにそれはあるもの、人ながらで受けて行きゃ良いと言う訳なん。こげな事じゃいかんじゃないか。ちゃんとお風呂を入れる時には自分が手をつけてみて、はぁこれは親先生の加減に丁度良いということにしなきゃいけんじゃないか。熱過ぎらんごとぬる過ぎらんごと、そしてお風呂が沸きましたと言わにゃいかんじゃないかと、言いやせんけどそんな事を思うておる。朝の御理解を取り組んできておるけれども。
 そういう風なはぁスッキリとしたおかげというものは、なかなかやはり難しいもんだなとこう思いますね。昨夜の御祈念を仕えさせて頂こうとしておる時に、あのう毎日椛目の妹が参って参ります。お届けを致しますのに、今日はおかげを頂いてからと、色々お礼のお届けがありました後に、皆さんもご承知だったでしょうか、あのう椛目のちょうど真中に、電柱に電気が立っております。村内に四つか五つがございます中に、あれだけはあのう教会から払うてくれと。
 私の方には別にあれが明かりが役に立つ訳じゃないんです、椛目の真中にあるのですから。けれども払うてくれということだったから、もう家から払いましょうと言うて、まぁ払うておったのがもう二年余り今日まで妹が払っておる訳ですよね。そりゃまぁ二百円足らずのお金毎月払うんです。なら球が切れる球を買うて来てから若い人に頼んで、球を入れてもらう。そうしよったとこう言うんです。ところが村内の人達が、はぁもうあそこ大坪さんがおんなさる時にはね。
 それはまぁ教会から出してもらいよったばってん、あぁして細々とまぁ親子でいきよんなさるとに、あの人達に村のそのう電球をあのう電気を払わせるとは、どうじゃろうかというような話が出て、部落長さんが昨日わざわざ見えましてね。あのうこれからのあのう村から払うようにしますから、と言うて見えたとところなんです。そうですかそんならそげんして下さいとこう言うてですね、それまでにあの村内のその外灯の電気の割り勘ですかね、割り当てはずっと集金に見えたそうです。
 けれども私はそれを聞かせて頂きながら、この人はもうどこまで本当に有り難い人じゃろうかと、こう思いました。大抵の者ならですねそりゃ私でもですね、言うなら例えばねもうこれは村にお返しするとね。もう当然私の方から払うべきものじゃない、と言うたに違いはない。それに球が切れたら買うて又それにはめる。又はその他んとの割り当て外灯の割り当ての金の集金に来られたなら、私どんはあれいっちょ払いよるけんで、もうその割り当てまでは払わんでよかそうなもんですのや。
 位な事はもう言いかねないとこう思うのです。もうそれを決っしてなら裕福な生活をしておるわけでもない、自分があぁして出て働いておるのでございますけれども。それをひとつも引っかからんでしておる事ですね。私はいつもながら本当にあの感心致します。例えば昨日の朝の御理解を頂いておる訳じゃないけれども、もうそれが身についておる感じです。私はその神様に御祈念の時にさせて頂きながら、そのいろいろ教えられた訳でございますけれども。
 本当にあの今朝から頂く御理解がね、有り難いというので損とか得とかとか、自分の我情と言った様なものがですね、こうかき消えて行く。有り難いもので消えて行く。それが大きな信心だと今朝から頂いたが、昨日夜の方にでもねこれでもう大きな信心だと頂いたが、本当に大きな信心とはこれだなぁと私は思うた。最近ここの大祭の十六日という、四月の十六日という日が、非常にあっちこちらにどうも差し障りがあるような感じがある。親先生からそれを言われて、私もそれを言われましたし。
 先日は秋永先生が久留米の総代さんからそれを言われておられる。勿論それはこちらの勝手ですから、誰が何と言うたって変えませんよ、どこに迷惑になる日じゃないじゃないですか。十六日どこにかそのう大祭がだぶったとか、何かて言うならだけども何でもない。ただ昔から椛目時代から十六日にしとるのだから、これは変えませんよと言うて突っぱねても良いのです。まぁ又それをひとつの信念的なものでもございますから、それをやって来ても良いのですけれどもです。私は昨日御祈念中にそげん思うたんですよね。
 そう言う様な例えば心の中に、これは神様から頂いておる、この十六日という日は神様から頂いておる日であるから、変えられんと言う様な日であってもね、こちらがですね、なら隣近所例えば親先生が安心して下さる、喜んで下さる日にちがあるならば。それをを頂かせてもらえれる、いわゆる私の心の中に私共の心の中にあるです、そういう嫌味な事ばっかり言うてとか、合楽は切りこんどるけんとかと言った様なですね、感情が有り難いというもので消えて行ってしまうならです。
 もういつでもかまわんていう気になりましたね私。私の有り難いという心でそれが洗われるなら。明日明後日ねここの久留米地区の信徒の大会が、久留米の教会であります。それをちょうどそのう総会の日にしてある。それは総会の日だから日にちを変えてくれと言うけれども、これは変える訳にはいけんとこう言われる。全部の教会の幹部が集まった時にその話が出たんです。
 その日は家にはそれこそ毎年四月の十六日の大祭に対する、三月の十六日ていうのは信者一同が集まって、その総会をいわゆる大祭への決起運動のようなそのう会が開かれるのだから、大事な日だからその日を避けてくれとこう言うけれども、それはいけないとこう。そんならばあの一時間だけでも良いから早くしてくれ。これは私が丁度その会善道寺でその話がありまして。それで一時間早くして貰う訳にはいけんでしょうかね。
 そうすると少しは遅くなりましょうけれども、その却って三時に済むのが、二時に済むということになりゃ、それまでその会にも参加して、その後をうちの総会をしても良いからと言ったら、そりゃあ出来ん事はないちほんなら九時にしましょうと、皆んなで決めてあったんです。ところがやっぱり結局は十時からしか開かない。ですからまぁそんならお昼ならお昼までその大会に参加して、午後からはみんな貸し切りバスで参りますから、皆んな帰ってきてからそれから総会を開こうということに決まっておったんです。
 それも私は一緒に夕べは御祈念中に考えた。私共の有り難いという心でですね、わざわざ十六日にしないで、約束を履行しないでも、やはり十時からする。そう言う様な事をしてと心の中に思うて。そしてんなら中途半端十二時が、その昼食の時間に皆引き上げて帰って来ると言う様な事はです、後は講師の先生が見えてお話なさる時に、椛目の人達が立ったら、それこそお広前が歯の掛けた様になるだろうと。そげな事なんか知るもんかこっちのせいじゃないのだから、と言うて帰って来れん事たぁないんです。
 けれどもね私共が総会をね、櫛原の教会でどこどこの先生を講師に迎えて、話を聞くと言う様な風に考えたら、これはもうそれがそのまま総会だと私は思うたです。二時までかかろうが三時までかかろうがです、やはり信者一同で総会のおかげを頂いて、総会で皆お話を頂いておると思うて。そうすると向こうの教会の方達の生き方にこちらが合流する事になる。それももちろんただ泣き泣き辛抱するのじゃなくてです、それを有り難いものとしてそれが頂けれるならですね、これはいっちょん問題はないじゃないかと。
 どころかかえって有り難い。昔は総会を他所の温泉地で致しましたり、二日市の大宰府さんで致しましたりしたことすらがあるのですから。総会を櫛原の教会に持ち出して、させてもろうて。そしてしかも普通では出けないえらい先生に来てもらって、お話があるのですから、うちの総会にその先生に来てもらって、話を聞いておるような気持ちになりゃ、有り難く受けられん事はないぞと。そして三時からでもええ四時からでもええ。
 帰ってきて最後のぎりぎりの総会の、その願いというのはですひと月後に控えた御大祭に対するところの心構えをつくるだけの事。その事を言い合わせもちろん会計の報告とか、様々なそういうこともありましょうけれども、それは簡単に出ける事である。だからその日の総会はそうしても良いなと、私の心の中にそれを有り難いということで、今までのそうした感情ていうものが消してしまえれるなら。どんなにそれが神ながらな事であっても、四月の十六日というのは、神ながらに定められた十六日であっても。
 こちらが人ながらの信心を持ってそれを受けて行くならね、十六日は二十六日になっても。また五月の月になっても、これは一向かまわないのじゃない、それが大きな信心だということになったらですね、これはもういよいよそうしなけりゃ馬鹿らしい事になって参りましたよ。昨日の御理解を頂いておりますと、大きな信心とは大きなおかげを受けることだと、直結しておるです。大きな信心が良いと仰る。その大きな信心と大きなおかげとは繋がっておるのだ。
 それを大きなおかげだけを願って、大きな信心をしないところに、願っただけじゃおかげは頂かれんのだ。ははぁこれは今朝から頂いた大きな信心に繋がるんだと、私は思うた。どう言う様な例えばいきさつがあっても、それを私の有り難いというもので消せれるなら、皆さんの有り難いという信心でそれが消せれるなら。いやむしろその事が有り難いと頂けれるなら。それこそが大きな信心だということになるのでございます。しかもその大きな信心には、大きなおかげがつきものなのですから。
 合楽自体としてももっともっと、大きなおかげを頂きたい時なのですから。これは有り難い事なのです。けれどもそういう感情が心の中にね、どういう訳に十六日という日が皆んなにそんなにいけんのであろうか。それはちゃんともう人間的に考えりゃその意味が分る。その性根が嫌だと言う様な気持ちがあって、それを例えば言い張っておったり、又はそれをほんなら向こうから言われる通りにしてもですそれではおかげにはならん。
 その神ながらな事柄でも、ひとつ人ながらいわゆる人ながらの真を持って、それを受ける気になりゃ、有り難いという気になって受ける気になりゃ、どういうもので感情でも有り難いというもので消してしまえば、それが今朝から頂いた大きな信心に繋がるんだと思うたら、私御祈念中に嬉しゅうなった。妹のそのお届けを聞かせて頂きよってからですね、本当に有り難い事だと思わせて頂いたんですね。例えばそういう風に思われたり、頂けたりするということがね。
 ことを私は神様は喜んで下さり、神様が安心して下さるということはそういうことじゃなかろうか。どのような場合でもあのような風に、有り難い方にしか有り難い方にしか受けて行かん氏子であると、神様が認めて下さった時に、もうあの氏子は大丈夫だということに、なるんじゃないでしょうか。それにはです今日のこの御理解十七節です。それを力を受ける、お徳を受けるという意味合いにおいての、神の綱を切るなということなんですけれどもね。
 私共がここんところを例えばんなら、この若先生の例をとりましたがね、あぁいう難儀な中にあっても、神の綱をいわば握り締めながら、それに手繰って行っておるその姿というものがですね、その手を緩めようとしないということがですね、必ずやその船に乗せて頂けれる、いわゆる徳の船に乗れれる一つの過程であるという風に、私は頂いておりますがですね。これをあれに頼りこれに頼りして御覧なさい。もうそういう力は頂けません。ただおかげを受けたということだけにしか終わりません。
 それが力にも徳にもなりません。十分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよというその信心をです、今若先生は身をもってそれを行じておる訳になるのじゃないでしょうかね。そういう信心を身に付けて行って、初めてですねどのような場合でも、いわゆるそれを大きな心というかね、いわゆる大きな心とは有り難いという心で、どのような事柄でも消して行けれるだけの、力ていうものが出て来るのじゃないでしょうかね。昨日の朝の御理解をもう一遍頂いて、もちろん皆さんも昨日一日。
 そのあの大きな信心というのに取り組まれた事であろうと思うがです、それをもう一つ、大きなものにして行くと言う事はです、いわゆる私共に願っても願ってもそのやまない心で願っておるね、大きなおかげに繋がるものであるならば、これは泣く泣く辛抱しいしいんじゃなくて、そこを有り難くそれを消して行けれる信心こそ、大きな信心に繋がるのであるから、おかげを受けなきゃならんという風に思います。それにはねここで神様が力を与えて下さろうとしよるなぁ、と言った様な難儀な問題を感じた時にですね。
 あれに頼りこれに縋りする様な事がなく、その綱に縋り切ってね、その向こうにある神様のお働きというか思いというか、に添うて行く信心になった時に、神様が喜んで下さる神様が安心して下さる。同時に私共も喜べ安心が出来る。もちろんそこには大きなおかげの中にある事が出来る。どうでもひとつそこのところをです、現在の合楽の人達は、本気でひとつ身に付けて行って頂きたいという風に思うのでございます。
   どうぞ。